心とくらしが整う禅の教え

学び

吉村昇洋さん著書、「心とくらしが整う禅の教え」。

食は心と身体を整える

日常のすべての行為が、修行とされる禅の中でも食事は坐禅、掃除と並ぶ基本の修行です。

禅の食事は精進料理ですが、一般的な精進料理のイメージは、肉や魚を使わない野菜中心の料理でしょう。

厳密に言えば、精進料理ではニンニクやネギ、玉ねぎなどを使うことが禁じられていますから、禁止食材を使わない野菜料理ともいえます。

精進とは、仏道修行に励むことですので、その意味を加えれば修行に励む僧侶が食べそうな野菜料理となります。

精進から導かれるもう一つの意味合いは、食べること自体が修行となる料理です。

この修行とは禅の食事、作法を理解して実践することです。

その具体的な作法とは

  • 姿勢を正す
  • 箸や器を扱うときには、必ず両手で扱う
  • 口にものを入れているときには、箸を置いて、手は膝の上に置いておく
  • しゃべらない。音を立てない。
  • 食事の最後にお茶で器を洗い、そのお茶もすべて飲み干す

両手で端や器を扱うのは、物事を丁寧に扱うと言うことに加えて、1つの器を手にしているときには、その器のものだけをいただく。

他の器の料理に浮気をせずに、今手に持っている料理としっかり向き合うと言うことです。

咀嚼中は、手を膝に置きますから、他のものを口に入れることなく、口の中のものとちゃんと向き合います。

最後にお茶で洗うのは全てをいただきると言うことです。

こうした作法で食事をすると食べる行為が「今この瞬間」の体験だと感じられます。

野菜は皮やへたまで全部使い切る

禅では、食材を無駄にすることなく、食べる時も全てをいただき切ります。

野菜は捨てるところがないと言う前提で調理します。

通常は捨ててしまうようなところでも何とかして食べられるのではないかと言う視点で素材と向き合うのです。

調理次第で、皮もへたも美味しく食べられます。

野菜を全部使い、切ればゴミが減らせて、後片付けも楽になります。

れんこんやじゃがいも、長芋、にんじんなどの根菜類の皮は油と対象が良いので、素揚げにするか油で炒めます。

根菜の皮だけのかき揚げはかなりおいしい一品になります。

禅式そうじで住まいと心を磨く

掃除はめんどくさい、でもきれいになったら気持ちいい、掃除に対するこの2つの感情のうち、どちらが強いかと言うと、大体はめんどくさいが勝ってしまいます。

でもやり始めてみれば、やはりきれいになる気持ちよさを感じて、途中から楽しくなったり、もっとやりたくなったりすることもあります。

掃除の時、そんな自分の心のありようを意識したことがあるでしょうか?

掃除は自分の心を見つめる、つまり自分と向き合う機会です。

自分の心の持ち方、心のありようを、掃除と言う具体的な行為を通して、しっかりと感じていく、それが禅の掃除だと言えます。

家庭での掃除は修行ではありませんが、掃除はめんどくさいことだからこそ、我が出やすく、自分と向き合いやすいといえます。

つい手を抜こうとしてしまいますし、自分の弱さがすぐに露呈します。

禅では、今この瞬間に意識を向けてありのままに受け止めることを大事にします。

と向き合うことも同様で、もし掃除が面倒だと感じているのなら、そう感じている。自分を受け止め、自分としっかり向き合う、途中から楽しくなっていったら楽しんでいる自分を受け止めしっかりと向き合います。

向き合うといっても、自分について考えるということではありません。

何かを思考し始めると、そのことにとらわれてしまいます。

とらわれると、心も行動も萎縮してやる気が失せてしまったりします。

あれこれ考えるのではなく、今この瞬間の自己をありのままに感じる、自分はこんなふうに感じているんだなと気づけばいいのです。

その気づきが、自分の心の持ち方を問うきっかけとなります。

雑巾掛けで部屋の隅々まできれいに

普段は、掃除機やワイパーで済ませているところを、雑巾で拭くと、自分の心がどうなるか、自分の手を動かしたところが確かにきれいになると言う感覚が得られます。

きれいになることをダイレクトに感じられ、そのことが今この瞬間に意識を向けやすくなります。

とらわれを手放してスッキリする

片付けを面倒にする最大の原因はものがありすぎることではないでしょうか。

ものが多いと、あらゆるところが乱雑になりやすく、なかなか片付けきれません。

収納場所もぎゅうぎゅうで、物が出し入れしにくく、出したらしまうという、片付けの基本的なことが億劫になります。

そうすると、溢れたもので部屋が散らかってしまい、片付けがどんどん面倒になってしまうのです。

ものを置き始めると、ことに慣れ、そしてだんだんとものがプラスされていきます。

そしてものが溜まり、やがては、ものが溢れすぎていることにも慣れてしまいます。

片付けを習慣付けるには、余計なものがない空間になれることが大事です。

つまり、片付けは物を減らすところから始まります。

もったいない、もまた、とらわれです。

捨てるのはもったいないと言って、たくさんあるものを全部残して、さらに増やそうとする、現代はもったいないと言いながら、ものを増やす人が多いといえます。

その結果、使っていないものが大量のため込まれることになり、いっそうものが出しづらく、使いにくくなってしまいます。

これは思い出の品だからとかまたいつかそのうち使うかもしれないと考えるのは、過去や未来にとらわれているということです。

今は使っていないけど、将来使うかもと意識が「今」ではないところに向いてしまっています。

常に今という意識を持つようにすれば、物を処分することができます。

ものを捨てるのは、自分の1部を捨てるように感じられるので、抵抗があって当然です。

けれど、よくよく見ればものは、ただのものでしかなく、自分なんてどこにも入っていません。

ものの価値は、自分が勝手に付け加えているだけと言うことに気づきます。

こうしたことを禅では「手放す」といいます。

自分と言う思いを手放していく、それは思考の話だけではなく、行為として手放すことも必要です。

とらわれを手放せば、ものが減り、おのずと片付けも楽になります。

玄関周りには極力ものを置かない

玄関は外からゴミや埃、土などが入ってきて汚れやすい場所で、汚れが溜まっているはずです。

その周りだけをきれいにしても、風が吹いたりしたら横になるが、顔を出すことになります。

つまり、掃除をしても結局きれいになっておらず、すぐに汚くなってしまうのです。

玄関に置かなくて、いいものは、極力別の場所にしまい、靴は何足も出しっぱなしにせず、玄関は、その家の第一印象を決める場所でもあるので、すっきりときれいにしておきましょう。

玄関は、仏教から生まれた言葉で、「玄」は、深い覚り、「関」は、関門。

つまり、深い覚りに入るための関門という意味になります。

そうした点からも、きれいにしておかなければいけない場所だといえます。

今この瞬間の自分と向き合う

今この瞬間の自分と向き合うとはどういうことか。

それがよくわかるのが坐禅です。

坐禅は、禅僧にとって大事な仏道修行ですが、一般の方にとっても、体と心の力みを手放しありのままの自分に立ち戻るきっかけを与えてくれるので、やってみることをお勧めします。

坐禅では、今この瞬間の自己に気づきやすいものとして、姿勢と呼吸に意識を向けます。

坐禅中には様々な考え事が頭に浮かんできて当たり前で、大切なのは、それに対してどういう対処の仕方をするかです。

を排除しようとするのではなく、ただ受け止める、こういうことが浮かんできたと言う事実を客観的に見て、姿勢と呼吸に意識を向けます。

坐禅をすると、こんなにたくさんの考え事が浮かぶんだということがわかります。

考え事をただ受け止めることを続けていくうちに思考にとらわれなくなっていきます。

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