パレスチナの歴史と現在

政治と経済

パレスチナについて、歴史的経緯と現在の状況について詳しく解説します。

パレスチナは、現在のイスラエル、ヨルダン、およびパレスチナ自治区を含む地域を指します。

この地域は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つの宗教にとっての聖地であり、特にエルサレムの街がその中心となっています。

古代からディアスポラまで

今から約4000年前、ユダヤ人の祖先とされる人々(アブラハムに導かれた人々)が、神から「カナン」(現在のパレスチナ)へ行くようにとの啓示を受けて移動しました。

紀元前1000年頃には、この地にイスラエル王国が誕生しましたが、数百年後に分裂・滅亡し、ユダヤ人は外国の支配下に置かれます。

紀元1世紀頃、ローマ帝国による支配に対しユダヤ人は二度の反乱を起こしましたが敗北し、エルサレムへの立ち入りを禁止され、世界各地に離散しました。

これが約1900年間にわたる「ディアスポラ」(離散)の始まりです。

紀元7世紀以降、アラビア半島でイスラム教が始まり、その勢力が拡大し、パレスチナを含む中東地域のほとんどがイスラム教の支配下に入りました。

オスマン帝国支配とイギリスの介入

近現代において、パレスチナ地域は長期間にわたりオスマン帝国(イスラム教徒のトルコ人支配)の領土でした。

オスマン帝国時代は、非イスラム教徒であっても税金を払えば宗教の自由や一定の自治が認められており、民族紛争はほとんどありませんでした。

シオニズム運動の勃興

ヨーロッパではユダヤ人が長年激しい迫害を受けており、19世紀末のドレフュス事件などをきっかけに、パレスチナにユダヤ人国家を再建しようというシオニズム運動(ZION=シオンの丘=エルサレムに帰る運動)が本格化しました。

テオドール・ヘルツルが著した『ユダヤ人国家』がこの運動の基盤となりました。

イギリスによる「三枚舌外交」

第一次世界大戦中、オスマン帝国と敵対していたイギリスは、戦勝のために中東で矛盾した複数の約束(三枚舌外交)を行いました。

フサイン=マクマホン協定(アラブ人へ)

オスマン帝国に対する反乱に協力すれば、アラブ人国家の独立を支援すると約束しました。

バルフォア宣言(ユダヤ人へ)

イギリスのバルフォア外務大臣が、ユダヤ人金融財閥であるロスチャイルド家に対し、パレスチナにおけるユダヤ人の「民族的故郷(ナショナル・ホーム)」の建設に協力すると約束しました。

これはユダヤ金融資本(ロスチャイルド家)からの戦費援助を得るための取引でもありました。

サイクス=ピコ協定(フランス・ロシアへ)

戦後、オスマン帝国領をイギリスとフランスで分割統治する秘密協定を結びました。

これにより、ユダヤ人、アラブ人、そして欧州列強のそれぞれがパレスチナの権利を主張する根拠を持つことになり、後の紛争の火種となりました。

イギリス委任統治とイスラエル建国

第一次世界大戦後、パレスチナは国際連盟のイギリス委任統治領となりました。

移民の急増と対立の激化

ヨーロッパでのユダヤ人迫害、特に1930年代のナチス政権による大迫害を逃れるため、大量のユダヤ人難民がパレスチナへの移住を始めました。

当時のパレスチナには、もともとアラブ人が人口の約9割を占めていましたが、突如として入植し町を作り始めたヨーロッパ系のユダヤ人に対し、アラブ人は強く反発しました。

ユダヤ人側は、2000年前に故郷であった土地を取り返しに来たという主張をしましたが、アラブ人側はこれを時効の問題であり、侵略行為だとみなしました。

国連による分割案と建国

イギリスは収拾がつかなくなったパレスチナ問題を国際連合(国連)に委ね、1947年に国連はパレスチナ分割案を採択しました。

この案は、当時人口の約3分の1だったユダヤ人に対し、パレスチナの領土の56.5%を割り当てるという、ユダヤ人にとって有利な内容でした。

1948年、ユダヤ人指導者らがイスラエル国家の建国を宣言しました。

これは2000年ぶりの国家再建であり、シオニズムの悲願達成でした。

中東戦争と領土拡大

イスラエル建国に対し、エジプト、シリア、ヨルダン、イラク、レバノンを含むアラブ連盟は激しく反発し、直ちに戦争を開始しました(第一次中東戦争、パレスチナ戦争、1948年)。

第一次中東戦争 (1948)

イスラエルは世界大戦での戦闘経験を持つユダヤ人兵士の合流やイギリスからの武器供与などにより、アラブ連合軍に圧勝しました。

結果として、イスラエルは国連分割案で割り当てられた以上の土地を占領し、パレスチナの約8割を支配下に置きました。

これにより、多くのアラブ人が故郷を追われパレスチナ難民となり、この日はパレスチナ人にとって「ナクバ(大災厄)の始まりの日」とされています。

第二次・第三次中東戦争 (1956, 1967)

イスラエルは第三次中東戦争(六日戦争)において、アラブ諸国からの包囲と軍備増強に対抗するため、奇襲攻撃(敵基地攻撃)を仕掛けました。

この戦争でイスラエルは圧勝し、ゴラン高原(シリア領)、シナイ半島(エジプト領)、そしてヨルダン川西岸地区とガザ地区を占領し、領土を約2倍に拡大しました。

国際的な非難と米国の拒否権

イスラエルによる領土占領は国際社会から非難されましたが、国連安保理ではイスラエルに友好的なアメリカが拒否権を行使し続けたため、制裁は発動されませんでした。

パレスチナ抵抗運動と和平の試み

パレスチナ解放機構(PLO)

度重なる敗北により、アラブ諸国に対する不信感が募り、パレスチナ人自身による解放を目指すパレスチナ解放機構(PLO)が結成されました。

議長のアラファト氏は当初、ゲリラ活動や国際的なテロ行為(ミュンヘンオリンピック事件など)を通じてイスラエルに対抗しました。

インティファーダの発生

1987年、ガザ地区でイスラエル軍のトラックがパレスチナ人4人を殺害する交通事故を起こしたことをきっかけに、パレスチナの若者たちが石を投げつける抗議運動(インティファーダ)が始まりました。

丸腰の市民に対するイスラエル兵の弾圧の映像は国際世論の注目を集めました。

和平合意の成立と破綻

ソ連の崩壊(1991年)により後ろ盾を失ったPLOは、恩恵平和路線へ転換しました。

オスロ合意 (1993)

PLOのアラファト議長とイスラエルのラビン首相は、ノルウェーのオスロで会談し、相互の存在を承認し、ヨルダン川西岸地区の一部とガザ地区におけるパレスチナ人の暫定自治(5年間)を認める協定を結びました。

合意の破綻

しかし、オスロ合意は最終的に破られました。

イスラエル国内では、占領地にユダヤ人入植地を拡大していた強硬派(リクード党など)が猛反対し、和平推進派だったラビン首相はユダヤ人過激派のテロによって暗殺されました。

イスラエルは暫定自治後の完全独立を認めず、入植活動を続けたため、イスラエル軍は西岸地区から撤退していません。

ハマスの台頭と現在の状況

オスロ合意の失敗により、恩恵的なPLO(ファタハ)路線への不満が高まり、イスラム原理主義を掲げるハマスなどの過激派組織が台頭しました。

ハマスの性質

ハマスは「イスラエルを認めない」「パレスチナ全土の解放」を目指しており、テロや武力闘争を辞さない強硬姿勢をとっています。

また、貧困救済や教育などの奉仕活動も行っており、困窮するパレスチナ住民から支持を集めました。

パレスチナの分裂

2007年頃、選挙で勝利したハマスは、ガザ地区でPLO系のファタハに対しクーデターを起こし、ガザ地区を単独で実行支配する形となりました。

恒常的な衝突

ハマスが支配するガザ地区からは、イスラエルに向けてロケット弾が頻繁に発射され、イスラエル側も大規模な空爆や軍事行動で対抗するという、暴力の応酬が続いています。

西岸地区の状況

ヨルダン川西岸地区では、イスラエルがコンクリートの壁(高さ8m、長さ700km以上)を建設し、パレスチナ人の出入りや物流を厳しく制限することで、対立の溝がさらに深まっています。

アラブ諸国の対応

アラブ諸国は表向きパレスチナ国家の独立を支持していますが、特に石油で潤う産油国(サウジアラビア、UAE、カタールなど)は、自国の利益とアメリカとの関係を優先しており、パレスチナに対して積極的に援助や軍事介入を行わない傾向があります。

彼らは「アラブの裏切り者」と見なされることもあります。

ヨルダンやエジプトは、難民受け入れによって自国の安定が崩れることを懸念し、慎重な姿勢をとっています。

パレスチナ問題は、古代からの宗教的つながり、19世紀以降の帝国主義的策略、そして民族間の土地を巡る激しい争いが複雑に絡み合い、現在も解決に至っていない状況です。

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