縄文時代

歴史

時代区分と存続期間

縄文時代は、日本の歴史上、非常に長い期間続いた時代です。

現在の見解では、約1万4000年という途方もなく長い期間にわたり継続した文化であると考えられています。

これは、私たちが知るいかなる王朝や帝国よりも長く、安定して続いたという事実です。

縄文時代の始まりは、約1万6500年前に遡る世界最古級の土器が青森県で発見されたことに基づくと考えられており、その定義は、縄目模様のある縄文土器が出土する時代として区別されています。

この時代は、氷河期が終わり、気候が温暖化したことに伴う劇的な環境変化の中で始まりました。

縄文人の特徴と遺伝的背景

縄文人はホモ・サピエンスであり、体格は現代の日本人と比べると若干小さく、男性の平均身長は約160センチメートル前後、女性は約150センチメートル前後でした。

身体的特徴としては、肩幅が広く、手足ががっちりとした体型で、顔立ちは彫りが深く、唇が突き出ている傾向がありました。

縄文時代の人骨は、後の弥生時代に比べると、日本列島の各地で比較的似た形質を示していましたが、沖縄や北海道の縄文時代の人々にはそれなりの違いがあったことも分かっています。

遺伝子分析によれば、現代の日本人の遺伝子の約2割は縄文由来であるとされています。

また、縄文人はアルコールを分解できる遺伝子を持っていたことが分かっています。

平均寿命に関しては、乳幼児の死亡率が高かったため、非常に短く、12歳から15歳程度と推定されています。

ただし、15歳まで生き延びた場合の平均余命は16年、つまり平均寿命は30歳程度だったと推測されていました。

生活と経済(定住型狩猟採集社会)

縄文時代は、世界的に見ても珍しい定住型の狩猟採集社会という特徴を持ちます。

居住形態と集落

人々は主に竪穴式住居に住んでいました。

これは日本の歴史上、初めて作られた家とも言えます。

竪穴式住居は、半地下に掘られた穴と茅葺き屋根からなり、地面の温度が年間を通じて一定であるため、夏は涼しく冬は暖かいという利点がありました。

集落は、食料確保が容易な川や海、湖に面した水辺に形成され、東日本では大規模な環状集落(家屋が円形に並ぶ)が形成されることがあり、これは東アジアの狩猟採集文化の中では非常に珍しい事例でした。

食料獲得

狩猟

シカやイノシシなどが主に狩猟されました。

狩猟は動物が脂肪を蓄える秋から冬にかけて行われることが多かったようです。

漁労

海ではマグロ、カツオ、サケ、アザラシ、クジラなども獲られていました。

貝塚(貝殻が多く捨てられたゴミ捨て場)の存在は、海産資源の利用が盛んだったことを示しています。

採集・栽培

クリやドングリなどの木の実、ワラビなどの山菜が採取されました。

また、縄文人はクリの木を選んで人工的に植え、クリ林を形成するなど、積極的に森を管理し食料を確保していました。

稲作

本格的な稲作の普及は弥生時代ですが、資料によれば、縄文時代早期(約8000年〜9000年前)にはすでに稲の栽培が行われていた痕跡(プラント・オパール)が確認されています。

しかし、縄文社会は自然の恵みが豊かであったため、大規模な濃厚(土地を所有し支配するような農業)は積極的に広がりませんでした。

技術と道具

土器

世界最古級の縄文土器は、調理(煮炊き)のために使われ、食材の毒抜きや硬い木の実を柔らかくする調理法(煮る)を可能にし、食生活に革命をもたらしました。

初期の土器は尖底でしたが、後に高温で焼く技術が発達し、水が漏れにくくなると平底に変わりました。

食料加工

ドングリやクリなどの木の実を粉末にし、水で練って焼いた**クッキー状の保存食が作られていました。

また、海水を煮詰めて塩を作る製塩技術も持っていました。

航海術

伊豆諸島の神津島(こうづしま)でしか産出されない黒曜石が、沼津、長野、熊本、青森など遠隔地で発見されていることから、黒潮を利用した長距離の往復航海を行っていたことが分かっています。

石器

黒曜石などの石器を使い、木を火で炙って焦がし、削る作業を繰り返して大木を切り倒すなど、高度な技術を持っていました。

社会構造と精神文化

平和的で平等な社会

縄文時代は1万年以上にわたり平和が続いた稀有な時代だと考えられています。

集落から出土する人骨には、戦闘による殺傷の痕跡がほとんど見られません。

また、対人用としては非力な小型の石鏃(やじり)や石斧しか見つかっていません。

社会は比較的に平等的で、身分や階級の差が少なかったと推定されています。

指導者は存在したものの、権力者ではなく、あくまで役割の一つと見なされていたようです。

共同体を重視し、「個」の概念が希薄であった可能性が指摘されています。

信仰と祭り

縄文人はアニミズム(アニマ=精霊信仰)という、風、水、大地、動物、植物、さらには道具などあらゆるものに霊魂や神が宿るという原始的な信仰を持っていました。

この信仰に基づき、自然の恵みが続くようにと、自然を敬う儀式や祭り(シャーマニズムも含む)が行われました。

埋葬と土偶

埋葬

亡くなった人は、集落の真ん中にある墓地(墓塚)に埋葬されました。

これは死者(先祖)が村の守り神として生きる者と共存するという祖霊信仰を意味すると言われています。

屈葬

遺体を体育座りのように手足を折り曲げて埋葬する屈葬が一般的でした。

これは胎児の姿を模しており、魂の再生(生まれ変わり)を願う儀礼であった、あるいは死者が悪霊として復活するのを防ぐために動きを封じたという二つの説があります。

土偶

多くは女性や妊婦をかたどっており、安産祈願や豊作、あるいは病気や災厄の身代わりとして作られ、儀式後にわざと壊して破片を埋める風習があったと考えられています。

文字とコミュニケーション

縄文時代には、現代的な文字(言語を記録するための体系的なシステム)は存在しませんでした。

土器に刻まれた複雑な模様は、宇宙観や祈りといった精神的な意味を持つ文様でしたが、特定の音や言葉と結びついた文字ではありませんでした。

文字がなかったのは、社会がシンプルで、顔の見える関係の中で口伝えや身振り手振りといった交渉文化によってコミュニケーションが成立していたため、記録管理の必要性がなかったからだと考えられています。

終焉

長く安定していた縄文時代は、主に二つの大きな要因によって終焉を迎えました。

気候の寒冷化と食料難

縄文時代晩期になると、地球は再び寒冷化の時期を迎え、海面が低下し、豊かな森や干潟の恵みが乏しくなりました。

これにより食料生産が低下し、人口が減少しました。

大陸からの文化流入

食料難という資源のピンチの中、大陸や朝鮮半島から新しい文化(水田稲作や金属器)を持った人々が日本列島に渡来し始めました。

これらの新しい技術、特に稲作は、長期保存が可能な食料生産を可能にし、縄文人の一部は稲作を受け入れ、後の弥生時代を築いていくことになります。

この縄文文化から弥生文化への移行は、緩やかで、地域によってバラバラに進み、長い間、両文化が混じり合いながら存在していました。

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