大正デモクラシー

歴史

大正デモクラシーは、大正時代において議論が自由闊達に行われ、非常に明るい時代であり、高度な民主主義が発展した時期を指します。

デモクラシーは民主主義を意味し、この時期の民主主義の発展は、後に昭和時代に訪れる閉塞感や言論の制約が強い時期とは対照的でした。

経済的背景と社会の歪み

大正デモクラシーの背景には、第一次世界大戦後の好景気(対戦景気)があります。

日本は戦火を免れたため、ヨーロッパへの輸出品の製造が盛んになり、産業が大きく発展しました。

特に重工業や化学工業が発達し、日本は農業国から工業国へと転換しました。

この好景気の結果、明治維新以降初めて輸入額よりも輸出額が多くなり、大きな貿易黒字を計上しました。

日清・日露戦争で借りた多額の借金も、この好景気によってほとんど返済され、日本は債務国から債権国へと変化しました。

しかし、経済の急進展は社会に歪みをもたらしました。

特に米価が急騰した結果、生活に苦しむ人々によって米騒動が発生しました。

また、明治以来政治を主導してきた薩長閥(薩摩・長州出身者を中心とする派閥)に対する不満が広がり、政治変革を求める声が高まりました。

政治体制の転換

こうした社会的不満を背景に、第一次護憲運動が起きるなど、政治は大きく動きました。

平民宰相・原敬内閣の登場

一般平民出身の原敬が総理大臣に就任したことは、それまで特権階級の士族などが担ってきた総理の座に平民が入るという点で、日本の政治の流れを大きく変える転換点となりました。

原敬内閣は、陸軍大臣や海軍大臣などを除き、立憲政友会(原敬の系列)の人物が閣僚を占めました。

これにより、選挙によって人気を得た与党の第一党の党首が組閣するという、政党政治が本格的に始まりました。

これは明治時代から始まった民主主義が徐々に成熟したことを意味します。

憲政の常道

この時期、憲法に具体的に書かれていない政治運用が、慣習の積み重ね(憲政の常道)によって補われるようになりました。

桂園時代

日露戦争後から大正政変までの間は、元老である山県有朋・伊藤博文の支持を受け、衆議院を抑える西園寺公望(立憲政友会総裁)と、官僚機構を抑える桂太郎(陸軍閥)が交代で政権を担う桂園時代と呼ばれる安定期もありました。

桂太郎は衆議院の支持がないため、「ニコポン」(ニコっと笑って肩をポンと叩き、根回しをする)を駆使して政権を維持したとされます。

民主主義の理論的発展

大正デモクラシー期は、民主主義に関する自由な議論が活発に行われました。

民本主義(吉野作造)

政治学者吉野作造は「デモクラシー」を民本主義と訳すべきだと提唱しました。

吉野は、民主主義を単に主権が国民にあるか君主にあるかという区別だけでなく、「国民のために政治が行われているか」という視点が重要であると主張しました。

天皇に主権(統治権)があっても、国民の幸せを願って政治が行われるならば、それは民本主義であり、民主主義と矛盾しないと説きました。

天皇機関説(美濃部達吉)

憲法学者美濃部達吉は、天皇機関説を提唱しました。

これは、天皇は国家(法人)の最高機関の一つであり、統治権は天皇個人に属するのではなく国家に属するという考え方でした。

この考え方は当時、憲法学の通説でしたが、後に政治的な問題として激しい議論の対象となりました。

民主化の進展

1925年(大正14年)には普通選挙法が施行され、民主化はさらに進みました。

これにより、従来の納税額による制限が撤廃され、25歳以上の男子全員に選挙権が与えられることになりました。

また、この時代には、女性の参政権や権利、平等に関する議論も活発に行われました。

さらに、共産主義の影響も受けつつ、労働者の権利を求める社会運動も活発化しました。

日本は、イギリスが300年かけて行った民主化のプロセスを約50年で達成しようとしたため、「急ぎすぎた民主制」という側面もありました。

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